すごす
電車に乗っていて、ふと思った。
「乗り過ごす」って表現、よくよく考えるとなんか変じゃね?
例えば、
(2) 電車を乗り過ごした。
ごく普通にどちらも自然な表現だと思われる。しかし、俺の内省探知ゴーストがささやいたw 「駅を乗り過ごした」って、もう「乗って」んだから「過ごし」てないじゃん! と。「駅」は降りるものだから「降り過ごす」が正しいのでは? しかし、
これは明らかにアウトな表現だ。
一旦、気付いてしまうと、ムカデが自分の足の動かし方を考えてしまって歩けなくなるのと同じく、何が自然で何が不自然なんだか分からなくなってきた。
もっとも、「駅を乗り過ごした」は「乗ったまま通過した」の意、「電車を乗り過ごした」は「乗り損ねた」の意*1、という違いがあるから、それでいいじゃんって話もある。
ググってみると、同じような問題意識を持ってる人は少なからずいるようだ。おそらく、論文を探せばきっと言及しているものはたくさんあるはず。絶対あるはず。でも、探すのメンドクサイので、自分なりに考えてみる。
◇「駅を乗り過ごした」
−−−−−−−−−−→●−−−− 行為者の座標軸
「駅を乗り過ごした」の場合、○が降りるべき「駅」となり、●が行為者が「乗って」いる電車ということになる。
◇「電車を乗り過ごした」
−−−−−−−−−−→●−−−− 目標点の座標軸
「電車を乗り過ごした」の場合、○が行為者が「乗る」行為をする点となり、●が「乗る」目標物である「電車」となる。
こういう風に図示してみると、基本的な部分は全く同じで、○や●が何を指示するのかが異なっているだけであることが分かる。
二点間の認識的な相対的関係は共通で、その二つの点にそれぞれどうラベルを付けるかで「乗り過ごす」という表現全体の解釈が変わってくると考えるとよさげな感じがする。ラベル付けによって、ヲ格名詞に「駅」が来るか「電車」が来るかが決まるのだ。
また、「駅を乗り過ごした」の場合、行為者の座標軸は動詞「乗る」の行為に対応している。すでに乗っているわけだから。そして、まだ「降りて」いないため、動詞「降りる」の行為は上図の軸と対応させることができない。ゆえに、「降り過ごす」は不自然なのである。うわあ、論の飛躍と穴だらけだなあ。ウソくせえ。
◇「寝過ごした」
−−−−−−−−−−→●−−−− 行為者の時間軸
「〜過ごす」の別の例「寝過ごした」を見てみよう。「寝過ごした」の場合、目標点と行為者が入れ替わることはできない。入れ替えてしまうと、時間の流れの中で行為者が静止してしまっている、ザ・ワールド!状態になる。通常はありえない状態なので、「寝過ごした」は一意の解釈となる。
ただ、起きる「べき」時間が○で、実際に「寝て」起きた時間が●なので、意味合いとしては「駅を乗り過ごした」に近いといえる。「乗る」が含意する「降りる」点、「寝る」が含意する「起きる」点が○という共通点がある。前項の動詞そのものが持つ目標点ではないのである。
まあ、たぶん、自動詞とか他動詞とか、そこら辺の問題も関わってくるのだろう。そうなるともはや俺には手に負えないぞ。いや、上の説明の時点で手に負えなくなってるが。
◇おまけその1
ズレ幅を数量表現で示すことができるか、って点でも差異が出る。
(5)??電車を30分乗り過ごした。
(6) 30分寝過ごした。
(5)がかなり微妙だが、(4)よりは許容度が高い。さあ、どう考えていけばいいのか。
◇おまけその2
(8) *彼は彼女のことを思い過ごした。*2
「思い過ごし」だけは何故か動詞の形で用いられない。何故?
orz もうダメだ、他の人に任せます……。