ネ言 negen

たいしたことは書きません

よねよね

いつぞやのエントリで、終助詞「よね」について、

「よね」に関しては絶対的な論文量が少なく、それらの論の妥当性を検証する段階にはないような気がする。

などと書いたが、論文がある以上、やはり検証はしなきゃならん、というわけで検証をメモしておくことにする。今回、取り上げるのは、深尾(2005)*1


読んでまず気になったのが、「よね」を合成的とするか、非合成的とするかについての論者の立場が明確にされていない点。全体を読めばなんとなく非合成的観点なんだなあ、と分かるし、論者の前稿である深尾(1999)*2には、

「よね」は単純に「よ」と「ね」がくっついたものと考えることはできないことが分かる。
(深尾(1999), p.97)

とあるので、論者は「よね」と「よ」「ね」を別物として分析していることが分かる。が、もう少しはっきりと表明すべきである。「よね」の分析にとって、合成か非合成かという点はかなり重要なポイントである。せっかく前稿では書いてんだから、今回も書いててほしかった。*3


次に、メインである「よね」の意味について。論文では、

本稿では「よね」の意味を次のように考える。「自分の意見を提示し、相手の助けを借りて結論を出そうとする話し手の心的態度を表現する。
(深尾(2005), p.20(太字強調はnegenによる))

このように位置付けている。ここには問題が二つある。

一つは、「相手の助け」という概念。上記引用の直後に「相手の意見や知識を指す」と書いてある。これがイマイチ分かりづらい。もし、“聞き手知識の参照”的な捉え方だとすると、いわゆるmutual knowledge paradoxに陥ってしまい、意味の記述として成立しなくなる。しかし、挙げられている用例や解釈を見ると、単に“外の情報・状況”的な捉え方っぽい。つまり、外部情報を補完的に用いて自身の結論を導出する、という意味での「相手の助け」なのだろう。「助け」なんていう日常的な語を使うからかえって分かりづらくなる*4

もう一つは、「結論を出そうとする」という説明。ここはかなりあやふやで、直後の用例に基づく解説では、

女は「うまい」と話し手の意見を提示し、それが相手の助け(意見)を借りて出した結論であるということを示すために「よね」が使われていると考えるのである。
(深尾(2005), p.20(太字強調はnegenによる))

微妙な感じもするが、「出そうとする」と「出した」は心的な計算処理として全く異なるものではないのか。「出そうとする」では「まだ固まってないけど、これを結論として確定したいから、あなたの助けを貸してね」という態度となり、「出した」では「あなたの助けを借りて結論を確定させましたよ」という態度になる。この区別が論文ではなされていない。これって結構大きいような気がするんだけど、無視していいのかなあ。マズいだろう……。論文のメイン的には「相手の助け」っていうほうを取っているからなんだろうけどね。


次に用例の判定について。用例の判定(自然、不自然)は概ね妥当な感じ。だけれども、「命令文との共起」については、

 (27) 気をつけろ*/*よね
 (28) 何やってんだ! 早くやれ*/*よね
 (29) おどかすな*/*よね

 (深尾(2005), p.23)

このような例を挙げているが、次のような“命令”表現はどうなるのだろう。

    (a) やめてよね
    (b) 近寄らないでよね
    (c) とっとと帰ってよね

“命令”の定義次第か。深尾(1999)のほうでは、これらのようなのを「依頼文」としてるし。ほんとか?*5

あー、あと、感情形容詞と「よね」のところは判定かなり微妙だなあ。「よね」と「ね」を比較して挙げているが、

 (39) ?(君は)辛い。/*あの人は辛い
 (43) (君は)辛いよね。/?あの人(は)辛いよね

 (深尾(2005), p.23(表記の仕方を少し変えた))

つまり、「よね」にすると2人称主語や3人称主語でもよくなると言いたいらしいのだが、コレ、微妙。かなり微妙。「ね」でもオッケーじゃん? こういうところに注目するのは、アプローチの仕方として面白いけど、判定難しいよ。イントネーションも絡んでくるし。


最後にもっとも大きなところ。論文でも今後の課題としてはいるが、「のだ」+「よね」の文が、「相手の助け」だとか関係無しに許容されてしまう点。

 (46) そういうやり方でしか、自分、見せれないんだよね
 (47) やりたいことと違うんだよね

 (深尾(2005), p.24(表記を一部省略した))

これらの「のだ」+「よね」は、もはや自分の考えの表明でしかなく、どこにも「相手の助け」が関わっていない。これらの用例が許容されるということは、そもそも「よね」の意味として「相手の助け」が関わってこないことになる。本論文の結論における最大最強の反例である。

論文ではとりあえず、

話し手は「よね」を使って、「のだ」によって「既知の情報であるかのように提示された情報」に対して擬似的に「相手の助け(意見)を借りて結論を出す」操作を行い、相手との間に一体感を生じさせると考えられるのである。
(深尾(2005), p.24)

としているが、「擬似的」はかなり逃げの説明である。「一体感」というのもアヤシくて、例えば、

    (d)A 釘宮さんは、声がかわいいんだよね
      B 釘宮って、誰?

このように、一体感の構築すら求めていない(聞き手に当該情報の知識が無い)、ただの心情吐露的な「のだ」+「よね」の発話も可能である。コレの説明はかなりやっかいな気がする。


まとめ。この論文を読んで、今後の「よね」分析に必要だと感じたこと。

    (X) 「よね」は合成か非合成か、自分の立場を明確にする
    (Y) 「のだ」+「よね」を徹底的に考えないとダメ
    (Z) 音調も細かく分類しないとダメ

「のだ」との関係の重要性について気付くことができたので、その意味ではよかった。

*1:深尾まどか(2005) 「「よね」再考 ―人称と共起制限から―」 『日本語教育』125, pp.18-27, 日本語教育学会.

*2:深尾まどか(1999) 「終助詞「よね」について」 『日本語教育研究』38, pp.90-98, 言語文化研究所.

*3:もちろん、どっちの立場に立つか表明することと、その立場が妥当であるかということは別問題。

*4:加えて、「助け」には受身っぽいニュアンスも出てきてしまうので、さらに混乱を招く。

*5:深尾(1999)では、「「依頼文」のときは、話し手が配慮を働かせる余裕が有るので、「よね」を用いることができる」(p.97)と述べている。