ネ言 negen

たいしたことは書きません

震災

3月11日。埼玉の自宅にて地震に遭遇。尋常じゃない揺れに慌てる。公式にはうちの地域は震度4だったらしいが、あれはそんなもんじゃなかった。家具などは倒れず。本や物が少し散乱する程度。

地震直後から停電したため、テレビから情報を得られず、もっぱらケータイでネットを見る。震度7とか大津波とかの文字が乱れ飛ぶ。

実家が山形市なので、連絡を取ろうとするが、案の定、電話は繋がらない。実家は、ネットなにそれ? メールなにそれ?な環境なため、電話以外での連絡を取りようがない。「ハガキなら?」とか一瞬考えたりして自嘲する。

親も心配だが、ゼミ生も心配だ。ケータイでmixiにアクセスして、マイミクのゼミ生の安否を確認する。ボイスに書き込みがいくつか見られたので一安心。ケータイが電話としての機能もメールとしての機能も壊滅状態(電話繋がらない、メール遅延)だったので、mixiによるつながりはかなりな安心感を得られた。安否確認の書き込みをしたり、ネットニュースを見たりしつつ、待機。徐々に知人などとも連絡が取れはじめ、安堵感はさらに増す。

一方、自宅付近の停電は一向に復旧しない。そのうち、ケータイの充電が切れて、情報的に完全孤立。日も暮れる。

しょうがないので、真っ暗な夜の町を徘徊する。停電の割に妙に明るいと思ったら、線路向こうの地区は停電していないようだ。そっち側に行って、長蛇の列のコンビニで食料を調達する。あとは何もすることがないので、帰って寝る。ときどき余震に起こされる。


3月12日。停電復旧。テレビの映像に戦慄する。実家が心配になるが、依然つながらない。


3月13日。ゼミ生の安否確認が一通り取れる。ただ、何人かは実家や親戚の家が、福島だったり宮城だったりするので、不安が残る。夜、実家から電話が来る。どっかに避難でもしてるのかと思ったが、ずっと家にいたらしい。

実家にはずっと電話してたのだが、「大変混雑してる」パターンと「呼び出し音が鳴る」パターンの二種類の反応があった。混雑してるのはいいとしても、呼び出し音が鳴っても出ないので、別の場所に避難したか、あるいは最悪の場合まで想像していた。親に確認したら、電話は一切鳴らなかったと言う。それほど混雑・混乱してたということか。

食料・灯油などは備蓄があったようでそんなに困ってはいなかった。納豆が売ってないので困るとは言っていたが……。まー、確かに白いご飯に納豆は必需品ですな……。

山形市は30時間ほど停電していたようだ。人的・物的被害無しでほっと胸をなで下ろす。ちなみに13日はゼミの卒業旅行の予定(俺も参加予定)だったが、当然中止。仕方ない。


3月14日。大学や研究室の心配もしなきゃならんのだが、電車が動かないので行くことができない。東武東上線のやる気の無さは異常。異常を通り越してもはや無能のレベル。通勤不可なのでいつものように引きこもる。


3月16日。ようやく大学に行けた。俺の研究室は4階なんだけど、なーんもなってなかった。


3月18日。卒業証書授与式。式典や卒パは中止になったけど、門出の日だから笑顔で見送る。俺にとってはゼミの二期生の卒業となる。こんなタイミングで何かと大変だと思うが、たくましく生きてくれ。


……その後は、被害の拡大や原発のことに戦々恐々しつつ、現在に至る。新年度の学年暦が一ヶ月ズレて、5月スタートになっちゃったから、いろいろなケアが大変だなあ。


最後に、被災された皆様にお見舞い申し上げるとともに、亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。