ネ言 negen

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降車ボタンと指示詞

バスに乗っていると、ときどき微妙な違和感を覚えるのが「降車ボタン」だ。よく利用するバスは、降車ボタンがこんな形状になっているものが多い↓。



(自分で描いてみた)


違和感の元凶となっているボタンである。目的のバス停に近づいて、ボタンを押そうとするのだが、一瞬、どこを押していいのか分からなくなる。つまり、



こっちを押すのか、それとも、



こっちを押すのか。ほんのわずかであるが迷いが生じ、指先がフラフラと泳いでしまう。その隙に誰かにボタンを押されて、中途半端な格好のまま、気恥ずかしい思いをしたりもする。そんな経験、みんなあるよね?

そこで気になるのが、「何故降車ボタンの押す位置を迷ってしまうか」である。

単にボタンの形状の問題とすることもできるだろう。昔からよくある降車ボタンはこんな形をしていて、押すべきボタンが認識しやすい↓。



これと比較すると、上記のボタンは全面がボタンとして機能しているので、焦点が当てにくいんじゃないかと考えられる。どこかに台座の部分(ボタンではない部分)がある、という思い込みが、「台座がない!? え、え、どうなってんの? 何コレ?」という迷いにつながると捉えることができる。図形認識とか、図と地とか、その辺の問題かもしれない。


しかーし、本ブログはネ言なので、無理矢理にでも言葉の問題と結びつけるのだ(笑。

形状の認知の問題だけなら、事は単純なのだが、次の二つの降車ボタンでは「迷い方」に差があるような気がする。


 


違いは「このボタン」か「ここ」かだけである。俺の言語直観がささやくのだが、「ここ」だと、そんなに迷いが生じない。素直にボタンの部分を押してしまうだろう。迷うのは「このボタン」の場合なのである。

したがって、降車ボタンの押しにくさの問題は、形状の認知の観点ではなく、あくまでも言葉の問題として捉えることができるのである。そして、言葉の中でもいわゆる指示詞が関わってくる。

どちらも「この」「ここ」という“コ系指示”である。指示詞にはさまざまな使われ方があるが、コ系指示のもっとも分かりやすい使い方は「自分(話し手)に近いものを指し示す」ことである。

逆に、自分(話し手)から遠いものを指す場合には、「あれ」「あそこ」とか「それ」「そこ」なんていう指示詞を使う。ごく単純に言うと、指示詞はモノとの距離によって使い分けられているのである。


さて、降車ボタンと「この」「ここ」を考えてみよう。この場合は文字列なので、文字列とボタンとの距離がポイントとなる。どちらも、ボタンの表面に文字が書いてあるので、距離的には近い。つーか、密接というか、同一化している感じだ。

距離が近いんだから、「この」「ここ」を使うことに制約は無い。でも、「このボタン」はなんか、押しにくい。上のランプのほうをつい押してしまう。

つまり、「この」の場合、距離が近すぎてもダメなのである。「このボタン」は「「このボタン」が書いてある文字列の外部に指示対象が存在する」ことを意味していると考えることができる。

少し難しく言うと、「ある物体Nの表面に「この+N」と表記した場合、物体Nと文字列Nとの指示対応は必ずしも確定しない」となる。指し示したいモノそのものに「この+モノ」と書いても同定されにくく、どこか別のところに指し示すモノがあると読む人は思ってしまう。

だから、全面がボタンのものでも、



のような表記であれば、迷わず押せるはずである。「このボタン」の文字列の外部に「ボタン」があるからである。しかも、文字列とランプ部分との距離が相対的に離れているために、絶対にランプ部分を押すことはない。

おそらく、降車ボタンに限らず、「この+N」がNそのものに書いてある場合は、なにかしらの引っかかりを感じるだろう。スイッチに「このスイッチを押す」とか、ビンのフタに「このキャップをはずす」とか、窓に「この窓は開けないで」とか……。


これを、「「この+N」の自己指示問題」とでも呼んでおこう。

なんで、「この+N」に限って、自分自身を指しにくいのか。「ここ」や「これ」との違いは何か。また、この問題は文字列だけに見られる現象であり、話しことばでは違いがない。それは何故か。……などなど、いろいろ考えさせられるネタです。

日本語の指示詞の先行研究はあまり詳しくないので、今回のネタは既に研究されてるかもしれません。もしご存じの方があれば、お教え下さいませ。まあ、そもそも、「この」と「ここ」で違いなんてねーよ、と言われればそれまでなんですが。