ネ言 negen

たいしたことは書きません

ブログに問われる書く技術、話す技術

ITmediaのコラム。
 ITmedia ライフスタイル:ブログに問われる書く技術、話す技術 (1/3)
まさかITmediaの記事で「主格」なんて単語を目にするとは思わなかった。しかし、それ以前にこのコラムにはツッコミどころが多いのでツッコんでみる。

 リンク張りのブログでは、リンクと共にその内容の一部を引用するというスタイルが定着しつつある。何かの拍子にそういうブログにたどり着くと、この人は一体何がしたいのだろうかと思う。

え? メモじゃないの? リンクだけだと中身が分からない場合があるから、ポイントとなる箇所を引用してるんじゃないのかな。セキュリティホールmemoだと「注目点」と言ってますね。まさにそんな感じ。備忘録としての一つの効果的な方法だと思う。

 それらの人は、きっと記事を読んで何か感じることがあったのだろう。そしてそれをうまく文章化することができず、このような形になったのであろうと、善意に解釈している。

いや、善意に解釈してもらわなくても、単なる備忘録としてのリンク張りなんだから自分が思い出せればいいだけで、そこに文章化の必要性はあまり無い。URLもしくはページのタイトルだけでは、思い出す行為に時間がかかる。なら、もう一つキーワード的なものを書いておくことで、容易に記憶を辿ることができるようになる。そのための引用なのであれば、文章化しなくともよい。

 だが筆者のごく個人的な考えでは、まあいいんじゃないの、と思っている。本人に「公開している」という積極的な意識がない状況で、そんなことを小うるさく言いだしても、せっかくの表現の芽を摘んでしまうことになるからである。

は? いきなり問題提起を破棄ですか。最初の導入は一体何だったんだ。このコラム全体に言えることだが、話しがあっち行ったりこっち行ったりで、何が言いたいのかがはっきりしない。

また日本語の会話では、主語・主格の省略がたびたび行なわれるため、利き手は話しのニュアンスでそれを類推しながら、理解していく必要がある。

「主語」とか「主格」とかは言い出すとキリがないし専門的すぎるのでパス。省略が多いってのはその通りだけど。「聞き手」が「利き手」になってるのは愛嬌ってことで。で、その主語の省略で挙げた例がもんのすごい。

 それで思い出したが、古くは芭蕉の句ですごいのがある。
 「田一枚植えて立ち去る柳かな」
 これは芭蕉が田んぼ一枚分の稲を植えて立ち去ったわけではない。「農民が田一枚植え終わるのを見届けて、芭蕉が休んでいた柳の元から立ち去った」のである。これなどは、一文の中で主語が違う人に変わっているにもかかわらず、両方とも省略してしまっている。このあたりが日本語の主語・主格省略の限界点だろう。

 ̄|_|○ こんな感じにひっくり返ったよ。をいをい、俳句かよ。省略問題で定型詩を挙げてどーする。俳句が何で「主語・主格省略の限界点」を示しているのだろう。さっぱり分からん。そもそも字数制限があるものに省略の限界を言っても無意味だ。

そしてこの日本語特有の脆弱性を悪用する例が、「挙げ足を取る」という行為だ。

だーかーらー、なんで省略問題が「脆弱性」なの? 日本語の「特徴」の一つってんなら分かるが、なぜ「脆弱性」と位置付けられるのか。「脆弱」って「もろくて弱い」って意味だよ。日本語はもろくて弱いんですか、そうですか。

 もともと英語は話し言葉と書き言葉の間に、あまり明確な区別がない言語なのだろう。

英語は話し言葉と書き言葉の区別がない……。誰がそんなことを言ってるんだろう。

世の中にはブログの書き方教室ができたり、文章の書き方教則本が地道に人気があるという話は、聞いたことがない。

本多勝一とかが売れまくってるのを知らないんですか?
一応、リンク張っておきますね。Amazon.co.jp: 検索結果 : 作文技術

 幕末から明治にかけて、欧化政策の一環として「言文一致体」が確立して以降、口語と文語を使い分ける必要はなくなったことは、われわれとしては感謝すべきだろう。だがそれは決して、話し言葉がそのまま書き言葉になるという意味ではないのである。

いろいろツッコミどころがありそう。けど、この辺りの問題に触れるには私の知識が不足してるのでパス。ただ、このコラムにこの段落の内容はほとんど必要がない、意味のない文章。

一方、日本語はというと、主語・主体の省略ばかりではなく、語尾をはっきり言わず後は聞き手に任せるという話し方が一般的なため、あまり口述筆記に適した言語とは言えまい。

 だが、ただでさえ口述に向かない日本語では、一人でしゃべって何らかの意志を人に伝えるということは、文章を書くことを超える訓練が必要だという事実が、どうも置いて行かれているような気がしている。

まあ、確かに論理的に物事を考える力を養わないと、適切な表現力が身に付かないってのは確かですし、プレゼンテーションの技術ってのも重要だ。特に日本語なんかはSOVだから、話し言葉では文末をはっきり表現する必要がある。でもだからといって、「口述筆記に適した言語とは言えまい」「口述に向かない日本語」って位置付けはダメだろ。こういう技術は個別言語の問題じゃないし。

日本語をうまく一人でしゃべるためには、いったん言いたいことを文章にしてみるというのが、実は一番の近道なのである。

英語だって何語だって、うまくしゃべるためにはまず文章にすると思いますが。どーも、この筆者には英語至上の思想があるような気がする。

ところどころでは、なるほど納得なことを書いてたりする(ただしまとまりはないけど)。それだけに始末に負えない。もっと「コラムを書く技術」を身に付けたほうがいいと思いますよ。でないと、「コラムに問われる書く技術」なんて記事を書かれますよ(笑。