ネ言 negen

たいしたことは書きません

論文的思考

今更ながら、これを貼ってみる。
 斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖 (www.tv-game.com)
要は『ゲーム脳の恐怖』というトンデモ本の批判なのだが、このインタビューからは単なる批判だけではなく、何かを筋道立てて考える・書くことの重要性も見てとることができるのだ。その意味で、今更の感はあるけど貼っておくのだ。読め。

筋道立てて考えるってのは、つまり論文的な思考なわけだが、論文に必要なのは、

 ・問題
 ・観察
 ・考察

この3つだ*1。このどれが欠けていたとしても、まともな読み物にはならない。

欠けているだけならば、まだいい。「もっとがんばってね」で済む問題だ*2

たちが悪いのが、欠けてはいないけど、不自然な形で歪曲されている場合だ。意図的であれであれ非意図的であれ、「問題」「観察」「考察」の内、一つにでも歪曲が混入していたら、全体が蝕まれる結果となる。観察が偏っていたり、考察が恣意的だったりとかね。それだけでダメ論文になるのだが、悲しいことにダメかどうかは読んでみないと分からない。自分の論文だったら、読み返したってダメかどうか分からない(馬鹿)。

だからこそ、ものを考える・論文を書くときには慎重になるのだ。書きゃーいいってもんじゃあない。

ゲーム脳の恐怖』のたちの悪さは、「無知さ加減」と「結論ありき」の二つだ。つまり、「観察」と「考察」が歪曲しているってこと。これって、論文書きが商売の我々にとっては強力な反面教師となる。

だから、ひとまず、上の、リンクを、読め。




ちなみに俺はゲームが大好きだ。ゲームは1日24時間。それ以上やっても上達しないぞ。

*1:分野によっては違うかもだが、大抵はどこも同じだと思う。「ナニカを自分で説明する」という骨格は理系、文系問わず同じなんじゃないか。

*2:現実的には済まないのかもしれないが、純粋な知的生産としてみれば、クリアする可能性が存在する限り、がんばればクリアできる。(才能云々の問題はここでは捨象。)