準ひきこもり
Discommunicative - 大学における準ひきこもりという存在
↑これ経由で、一部で話題の「準ひきこもり」論文を読んでみた。
・「大学生における準ひきこもり行動に関する考察 ―キャンパスの孤立者について―」 『国際教養学部紀要』Vol.2, pp.25-30, 富山国際大学
・「かぐや姫症候群に関する考察 ―準ひきこもり行動との関連から―」 『国際教養学部紀要』Vol.2, pp.31-38, 富山国際大学
(いずれもPDFファイルです。)
読んで最初の感想。
「えっ? これって論文なの? どう見たってただのエッセイじゃん」
もちろん、俺にとっては異分野なので、こういった手法・展開の論文があるのが特に珍しくない業界なのかもしれない。でも、観察も考察も分析も全てが独りよがりな気がするのは俺だけではないだろう。
ツッコミどころはいくらでも挙げられるが、例えば、
準ひきこもりは現代病の一種と言えるが、社会進出を控えた大事な4年間を、極めて自閉的かつ無為に過ごすのだから、社会性がほとんど身につかず、卒業しても会社での激務など到底できない。
(「大学における準ひきこもり行動に関する考察」, p.26)
これ、ただの思いこみで根拠がない。読む人みんなが「あー、あるある」とうなずいてはくれるだろうが、それでは単なる面白い世間話でしかない。具体的に、どういった調査でどのような結果が得られて、それをどう解釈したら「準ひきこもり」と呼ぶことができるのかをきちんと明示しておかないと、それこそただの「愚痴」だ。
そもそも、準ひきこもりは現代病か? 昔からこんな人はいくらでもいたと思うが。
もう一つ。
まず最初に出現率について調べなければならないだろう。筆者の印象では、10人に1人というほど高率ないが20人に1人というほど低率でもないといったところである。また女子学生より男子学生に多い。
(同, p.29)
いや、あのう、論文ってのは、出現率とかそういったことを「調べてから」書くんじゃないんですか? 印象で論を展開されても、なんだかなー、って感じ。
二本目の論文もしかり。おまえ、かぐや姫症候群って言いたいだけちゃうんか、と。しかもこれ、どう考えてもこじつけだし。論文では、『竹取物語』でのかぐや姫の行く末と、準ひきこもりの行く末とをオーバーラップさせて捉えているが、例えば、
ここに登場する5人の貴族はかぐや姫を通常のコースに戻そうとする力、勤労モラル、あるいは社会のモラルを擬人化したものである。それは世の中に非常に強く充満しており、常に人を追いまわし、人の頭から離れない。
(「かぐや姫症候群に関する考察」, p.33)
ここなどは無理がありすぎる。
普通に考えれば、5人の貴族がかぐや姫を元に戻そうとしているのではなく、5人の貴族がかぐや姫の側に移行しようしていることが分かる。日常から非日常へという欲求であり、非日常を日常に戻すなどという欲求は微塵も感じられない。誰しも、自分を取り巻く日常以外の非日常への憧れを抱くものだろう。非日常への接触によって、自分自身を特別なものに位置付けようとするチャンスなのだ。
それを何故、くそつまらない日常へ戻す力の象徴として捉えなければならないのか。
マジで純粋に不思議に思うのだが、こういうのが論文として認められる業界があるの? あるの? あるの?
ちなみにもう一つ面白い論文がある。
・「生徒指導が極めて困難な事例の研究」 『国際教養学部紀要』Vol.1, pp.27-36, 富山国際大学
(PDFファイルです。)
なんとも要約しようのないものだが、「準ひきこもり」に該当する学生の事例研究である。こちらの論文のほうが先なので、この事例をもとに準ひきこもりの概念が生まれたと推測される。三つまとめて、勝手に「準ひきこもり」三部作と呼んでおこう。
論文の展開は、学生の事例・行動→それに対する所感→学生への指導、という流れで進んでいくのだが、
(Hの行った指導)
自宅ではなく,必要なことは学校で言うように,また他者のプライバシーに配慮するようにと指導する。しかし実際のところは指導するというより,Kを避けるので精一杯である。
(「生徒指導が極めて困難な事例の研究」, p.32)
(Hの行った指導)
Kを避けるのに精一杯である。
(同, p.32)
( ;´Д`) ……。
ストーカーの被害報告書ですか、これは。いいのか、これで?
まあ、たしかに俺も、
人格はないが相手をしてくれるもの(テレビ、パソコン、コンピュータゲーム、漫画やアニメなど)を延々と楽しみ、自閉傾向を強めつつも幸せな4年間を過ごす。
(「大学における準ひきこもり行動に関する考察」, p.27)
ここを読んで、ギクッとしたけどね。
ええ、未だにパソコンやゲームや漫画を延々と楽しんでますが、それが何か?