ネ言 negen

たいしたことは書きません

ツンデレ言語論(5)

前回の続き。ツンデレと言いさしの関係について。未読の方はそちらを先に読んでね。


言いさしとツンデレが(そのままでは)つながりそうでつながらないことを前回は確認しました。その話を進める前に、もう一つ、ツンデレ言いさしの特徴を見てみましょう。「から」による言いさしがツンデレ発話の特徴ですが、細かく見ると、「のだ」+「から」という形になっていることに気付きます。


 (4) べ、別にあんたのことなんか、何とも思ってないんだからねっ!
 (4') 何とも思ってない [のだ] [から] ねっ!


実際のところ、どの程度の差があるのか微妙なところですが、「のだ」を除いた形での言いさしにすると、若干ではありますが、ツンデレとしての解釈が薄くなるように思います。


 (18) べ、別にあんたのことなんか、何とも思ってないんだからねっ!
 (19) べ、別にあんたのことなんか、何とも思ってないからねっ!
 (20) ぐ、偶然よ、偶然。偶然なんだからっ!
 (21) ぐ、偶然よ、偶然。偶然だからっ!


「のだ」が無いからといって必ずしもツンデレ度がゼロになるというわけではありませんが、「のだ」が挿入されているほうが、なんか、こう、ツンデレとしてのリアリティ(?)が増すように感じられます。感じられませんか?

ということは、「から」だけではなく、「のだ」の意味や働きも踏まえなくては、ツンデレとの結びつきが説明しきれないといえます。でも、メンドクサイので*1、ここでは野田(1995)の論だけを取り上げることにします。野田(1995)はそのものズバリ「のだから」の働きについて分析した論考です。

野田(1995)が考察した「のだから」の働きを端的にまとめると、以下のようになります。*2

 聞き手が知っているはずの事態を十分に認識させる


一応、当該箇所も以下に引用しておきます。

「のだから」の文の話し手は、相手(ときには話し手自身)が前件の事態を知ってはいるはずだが後件の判断に至るほど十分には認識していないとみなし、十分認識させるために前件の事態を改めて示している。
(野田(1995), pp.242-243)


引用部に書いてある「前件」とは「〜のだから」の「〜」の部分、「後件」とはいわゆる主節(「のだから」の後ろ)の部分です。

上の記述は完全な文における説明ですが、言いさしの場合もほぼ同様だと指摘しています。*3

「のだから」に関するこの記述は、「から」による言いさしよりも一歩踏み込んだ説明になっていることが分かると思います。単なる提示ではなく、「聞き手が知っているはずのことを改めて明示」するための形式ということができるのです。


では、もう一度、ツンデレ発話に戻ってみましょう。


 (4) べ、別にあんたのことなんか、何とも思ってないんだからねっ!


「のだ」+「から」で終わっているので、この表現の内容部分「(私は)あなたのことを何とも思っていない」を、聞き手が知っているはずのこととして話し手は提示しているといえます。

つまり、話し手(ツンデレ配布側)は、「聞き手(ツンデレ受容側)が「話し手が聞き手に興味・関心が無いこと」を既に分かっている」ことを分かっている、そういった前提知識を持っているのです。


……ややこしいですね。


ややこしいですが、「のだ」+「から」の解釈を当てはめてみたとしても、「(私は)あなたのことを何とも思っていない」ことを聞き手に伝達していることに変わりはありません。これではツンデレにならないことは自明ですね。ただの感情垂れ流し野郎に過ぎません。

結局、「から」による言いさしも、「のだ」+「から」による言いさしも、それらの働きと表現内容の組み合わせだけでは、どうやってもツンデレ解釈が出ることが説明できないのです。

しかし、だからといって、言いさしとツンデレは無関係だ、とするのは早計です。


ツンデレ属性は、本心と行動とのギャップの見え隠れ感が根幹にあります。なので、


 (22) 嫌い。


と言えば、


 (22') 好き。


という本心が背後にあり、


 (23) あっち行け。


と言えば、


 (23') そばにいて。


という本心が背後にあるわけです。まあ、ことばの意味を逆に考えれば本心にたどりつくのですが、それだと、


 (24) あんたのことなんか、何とも思ってない。


という表現だって、


 (24') あんたのことを、すごく思ってる。


と解釈できてしまいます。しかし、よほど妄想をたくましくしなければ、(22)(23)(24)の発話にツンデレ解釈は望めませんね。やはり、言語形式として「のだ」+「から」を付けたり、つっかえが加わったりしたほうが、ツンデレ解釈は出やすくなります。

ですので、どこかに必ず、ギャップの見え隠れ感と「のだ」+「から」という言語形式が持つ働きとが親和性が高くなる、相性がよくなる理由が存在するはずなのです。

以下は、その理由に関する本稿での仮説(推論)です。


まず、ツンデレキャラの属性の一側面を次のように単純化しておきましょう。本心と行動との間にあるギャップがツンデレのポイントなので、


 (25) ツンデレキャラの本心は言語行動に投影されない


こんな言い方にすることができます。

そして、今まで見てきた、「から」や「のだ」+「から」による言いさしの働きも次のように単純化してしまいましょう。


 (26) 極めて確定的な共有情報として位置付ける(ことを要求する)


「から」の言いさしでは「参考情報の提示」、「のだ」+「から」の言いさしでは「知っているはずの情報の再認識(の要求)」といった形で、先行研究で分析されていたので、さらにまとめてしまうと(26)のようになると思います。*4

ツンデレキャラは言語行動に本心が投影されていないので、ツンデレが発話した場合、その“裏の意味”が本心ということになります。ここでポイントとなるのは、発話(表の意味)が確定的であればあるほど、裏返したときの“裏の意味”のインパクトが強烈になるという点です。

当然のことだったはずの情報の裏に隠された本心。ひっくり返されることで露わになる本心。その秘められた感情は、覆い隠していたものが強固なものである分、大きく強いものとして捉えられるのです。

この、覆い隠すことの強固さが、すなわち、「のだ」+「から」の言いさしにおける確定的な共有情報としての位置付けなのです。

つまり、「のだ」+「から」による言いさしが行っているのは、秘めた想いという本心の大きさを覆い隠せるような、強い情報を作り出すことだったのです。ある意味、下ごしらえ的な作業と言えるかもしれません。

単なる言い切りの文でツンデレっぽさが強く表出しないのは、“確定っぽさ”が弱すぎて(中立的すぎて)、裏返したとしても本心の強さが効果的に伝わらないからと説明することができるでしょう。*5

さらに付け加えると、「無駄に大げさな」覆い隠しの言語行動が、聞き手に推察(妄想)の余地を与え、結果として、ツンデレの本心の存在を想定(妄想)させます。ツンデレ発話の言いさしは、そういった聞き手の妄想や萌え解釈の一助にもなっているのです。


…………
以上のように考えると、「のだ」+「から」による言いさしがツンデレ発話において必須であることの理由について、筋道が通ったのではないかと思われます。


……ふう。どうなることかと思いましたが、ようやく結論までたどりつきました。ま、もっとも、これが正しいかどうかは分かりません。もっと他の別の考え方もあるかもしれません。それは各自の宿題です。

次回のネタは「終助詞・その他」です。



参考文献
野田春美(1995) 「「のだから」の特異性」, 仁田義雄(編)『複文の研究(上)』くろしお出版.


参考サイト
語尾を「〜だからね!」をつけるとツンデレっぽく聞こえる件 (もみあげチャーシュー)

*1:「から」にしろ、「のだ」にしろ、先行研究が多すぎるのです。

*2:ごく簡単に一言でまとめてしまいましたが、論文中ではたくさんの用例を挙げて丁寧に検証し、結論を導いています。

*3:野田(1995)では「終助詞的用法」と呼んでいます。

*4:このまとめかたはあくまでもツンデレ言語論用のものであって、研究的に正確かどうかは、きちんとした手順を踏まえてないので分かりません。分かりやすさ優先の単純化ということでご理解の程を。

*5:言語行動によって伝達できない以上、本心の解釈は聞き手の妄想に委ねられることになります。