ネ言 negen

たいしたことは書きません

よね

終助詞「よね」の意味記述をどうするかってのは、かなり悩ましい問題である。

「よね」が、終助詞「よ」+終助詞「ね」の合成によって記述可能なのかってこともあるし(益岡(1991)*1あたりの旧来的な説明では、合成解釈は矛盾をきたすってのは有名な話。蓮沼(1992)*2など参照)、合成だとしても、そもそも「ね」も「よ」もまだ意味分かってなくね? ってこともある。

個人的には、「ね」の意味の説明に関しては、金水・田窪(1998)*3が一つの到達点だと思っているが、だからといって「よ」や「よね」の分析も到達点に達しているわけでは決してない。さらに言えば、「よね」に関しては絶対的な論文量が少なく、それらの論の妥当性を検証する段階にはないような気がする。

だが、最近、篠田(2006)*4、名嶋(2006)*5などを読んでいると、「あ、イケるのかな?」って思いがしてきた。篠田(2006)は談話管理理論、名嶋(2006)は関連性理論から、「ね」「よ」そして「よね」の説明を試みている。拠って立つ理論は違えど、それぞれそれなりに妥当性は高い感じ。

俺は一昔前まで特段の理由もなく、「よね」は非合成的、「ね」や「よ」とは独立した終助詞だ、と考えていたが、考え改めたほうがよさげ。

ただ、問題は依然として残っていて、間投用法(間投助詞)の「ね」などをどう組み込んでいくかって点と、俺の領域である感動詞との組み合わせをどう扱うかって点が、高い壁である。少なくとも、終助詞の意味を命題と絡めていくという方向性だけでは、明らかに無理がある。そこら辺が、篠田(2006)にしろ、名嶋(2006)にしろ、解決できていないところである。

*1:益岡(1991) 『モダリティの文法』 くろしお出版

*2:蓮沼(1992) 「終助詞の複合形「よね」の用法と機能」, 筑波大学つくば言語文化フォーラム(編)『対照研究 第二号 発話マーカーについて』, pp.63-77, 筑波大学

*3:金水・田窪(1998) 「談話管理理論に基づく「よ」「ね」「よね」の研究」, 堂下・新美・白井・田中・溝口(編)『音声による人間と機械の対話』, pp.257-271, オーム社

*4:篠田(2006) 「終助詞「か」「よ」「ね」「よね」の機能 ―談話管理理論の立場から―」『文学論叢』23, pp.29-45, 徳島文理大学

*5:名嶋(2006) 「終助詞ヨとネに関する語用論的考察 ―手続き的意味の観点から―」『第4回日本語教育研究集会 予稿集』, pp.18-21, 名古屋大学大学院国際言語文化研究科日本言語文化専攻